アリと自由

—-南國科學通信 地上圏から2—-

アリは本来自由であった。

地を這って生きるアリであるが、彼らは元々は天からやってきた。アリの祖先は大空を舞うハチなのである。大国家を打ち立てるために、アリは自ら翅を切り落として地上に降り立ったのだ。

アリが翅を切り落とす、というのは比喩でなく、文字通りそうなのである。一般のアリは進化の途上で翅を失ったが、女王になるべく育てられた処女女王アリと、彼女らと番うためだけに生まれたオスアリたちだけは、翅をもっている。新たな王国を始めるため母の巣から飛び立ったアリの新女王は、結婚飛行を終え地上に降り立つと、自らの翅を切り落とすのだ。

ちなみにオスアリは全て、一度だけの飛行で自由を味わって自らの役目を終えると、そのまま落ちて息絶える。

翅を落としたのちの女王アリは、巣穴を掘って卵を産み、最初の世代の働きアリとなる娘たち育て上げると、あとは生涯、ただひたすら卵を産むことに専念する。女王は君臨すれども統治することはない。働きアリたちは卵を育て、自ら数を増して、社会システムを自ら組み上げ、巣穴を広げ餌場を広げ、アリの王国は領土を広げていくのである。

しかし全ての王国に順調な発展が保証されているわけではない。ある女王アリにとっての棲息適地は、当然他の女王アリにとっても適地である。発展するアリの王国の最大の敵は、同族異族の他のアリの王国である。

屈強の兵隊アリを揃えた防衛軍も、往々にして他のアリの王国との戦闘に敗れる。とりわけ恐ろしいのは、戦闘と支配に特化した、奴隷狩りをするサムライアリの種族である。

これらサムライアリたちにの辞書には容赦や慈悲といった言葉は無い。他のアリの巣を襲って女王と大人たちを殺し尽くしたのち、サムライアリは卵や幼虫を奪い去っていく。巣をそのまま乗っ取ることもある。拉致された子供達は、サムライアリの奴隷として育てられる。解明されていない何らかの化学的魔術で、彼らはサムライアリに支配されることになる。本来自らの姉妹たちの向けられるはずの養育本能を悪用されて、主人たちの身の回りの世話から子育てまでをさせられるのである。奴隷アリの絶望、悲痛は一体どれほどのものだろうか。

「アリには心がないんだから、絶望も悲痛もないですよ」

といったのは大学院生の中村君である。大学の研究室でアリのヴィデオを見ながら、彼らの社会について説明していた時のことである。アリの研究の世界的権威、ヴュルツブルク大学ベルト・ヘルドブラー博士のYouTubeにあがっているヴィデオである。進行中の多数決政治プロセスの数理モデル研究の参考にしようとの目論見なのだ。

「確かに生殖機能を女王に集約してるから、アリには恋愛感情とかはないだろうけどけど。でもアリに心がないなんて、断言できるかなあ。これ見てると、我々のできることはほぼ全てアリにもできるんだから。できないのは量子力学の計算くらいじゃない?」

そんな私の反論に対して中村君が答える。

「でもやっぱりアリは、結局本能の組み合わせのプログラムに従って動いてるだけで、心もないし感情もないし、自由も隷属もないような気がしますよ」

私がなおも食い下がる。

「人間のように農業をやり、人間のように仲間を教育し、人間のように葬式をやるアリに、心だけがないなんて考えづらくないかな。奴隷狩りをするアリってのを、意思のないただの自動プログラムで説明するのは難しくない?」

中村君も譲らない。

「いやもしその奴隷アリが反乱起こしたり、アリの社会に革命があったり、なんて言うのが見つかったら、僕もアリにも心があって、自由意志があるって認めますよ」

なるほどアリにもし魂があるのなら、それは自由を希求するだろう。もし奴隷アリが絶望に打ちひしがれるとしたら、それはいずれ怒りとなり、強い魂を持った奴隷たちの間から、いずれ反乱が沸き起こるだろう。唯々諾々と圧政に従うだけの奴隷アリは、確かにただの自動機械にちがいない。

学生に言い負かされたままセミナーを終えて、どうにも釈然としなかった私は、自分のオフィスに戻ると、念のため検索をかけて見た。slave, ants, revolt…

するとどうだろう。ごく最近のマインツ大学のパンミンゲル博士たちの研究論文がヒットした。その題からして「アリの”奴隷反乱”の地理的な分布について」というのである。調べると彼らもヴィデオを作っている。どうやら発表当時の2012年には、すこし評判になったようである。

プロトモグナトゥス・アメリカヌスというサムライアリに支配されているテムノトラックス・ロンギスピノススという奴隷アリについての研究である。サムライアリの方は、子育てや身繕いから巣の掃除まで、全て奴隷アリに任せきりなのだが、それが反乱の芽を生むのである。

まずはサボタージュである。子育てをいい加減にやって、サムライアリの幼虫をちゃんと育たなくする。そして時に積極的に幼虫を殺す。時には文字どおり反乱を起こして、集団で主人のサムライアリに襲いかかるのである。

論文の中でパンミンゲル博士は疑問を呈する。進化生物行動学的に見て、この反乱行動は謎であると。たいていの場合、優勢なサムライアリの武力の前に、反乱は鎮圧されて奴隷たちは皆殺しになる。首尾よく逃げおおせた反乱アリがいたとしても、彼らにはもはや帰るべき巣もなければ、仕えるべき自分たちの女王もいない。自由を愛する叛逆遺伝子は途絶えてしまって、世は従順な奴隷の遺伝子ばかりになることが予想されるのである。

しかし、と著者たちは言う、「血縁選択説」を取り入れて考えれば謎は解決する、と。

それはこういう事である。反逆精神の旺盛な奴隷アリの種族がいていくつもの巣を持っているとする。ある割合で巣はサムライアリに襲われて、そこの子供達は奴隷になるが、自由を愛する気質のおかげで始終反乱を起こす。反乱に悩まされるサムライアリの戦力は削がれ、襲われずに済んで生き残る巣が多くなるだろう。つまり反乱者は勇敢にも自らの命を捨てる事で、一族の絶滅を防ぐ。それが間接的に、自分が一族とともに分有する革命的遺伝子の維持に繋がるのである。

この説を傍証するために、著者たちはいくつかの異なった場所で調査を行った。すると奴隷アリの反乱の頻度と、襲われずに残った巣の割合に、血縁選択理論どおりの見事な相関が見られたのである。

アリに心があるのか、それは依然として不明である。しかしアリも人間と同じく自由を愛し、そのために命さえ投げ出すのである。

アリに革命があるか問題を持ち出したわが院生の中村君は生粋の土佐人である。彼の疑問には、いかにも高知らしい自由精神や自由民権思想のミームが、中江兆民の思想や板垣退助の魂が宿っていたのかもしれない。

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