世界の中心にすまう闇

—-南國科學通信 天体圏から1—-

世界の中心には巨大な暗闇がある。

高知大物理学科の飯田圭教授の講演はこのように始まった。

宇宙の中心はどこであろうか。実はこの質問には答えがない。宇宙は、より多次元の空間に埋め込まれた、両端が繋がった閉じた空間だからである。ちょうど地球の表面の二次元世界に生きる生物にとって、地表のどの地点が中心かという質問が無意味なように。

昼空には輝く太陽がある。コペルニクス以来よく知られている通り、この太陽が、地球や金星、火星を含む太陽系全体の中心である。では夜の星空の世界の中心はどこにあるのだろうか。目に見える星のほぼ全ては我々も属している銀河、すなわち「天の川銀河」の構成員である。天の川の銀河の中心こそが、さしあたって我々の目にする世界の中心だと考えて良いだろう。

初夏の深夜の天頂にかかる天の川、これは円盤状の銀河を内側から見た様子に他ならない。中天の白鳥座が身を浸すあたりからたどって、天の川が南の地平線に落ちる少し手前、真赤な蠍座のアンタレスの隣、射手座でひときわ明るくなっているあたり、そこに天の川銀河の中心がある。

銀河を外から見た想像図などでは、薄い円盤状の周辺部に比べて、銀河の中心はひときわ明るいミカン状の形に見えるが、我々の空にはそのようなものは見当たらない。むしろ中心付近で天の川は削り取られたように暗くなっている。その理由は暗黒星雲と言って、光をあまり通さない暗いガスが、我々の太陽系と銀河中心の間に横たわっているからである。我々の世界の中心である「銀河中心」は長い間、人間の視野の及ばない空白の世界であった。

赤外線天文学そしてX線天文学の発展で、その状況が近年一変した。可視光より波長の長い赤外線や、ずっと波長の短いX線は、暗黒星雲を突き抜けて来るからである。

赤外線で見た星々は、銀河中心に近づくにつれどんどん密度が増して千倍万倍、しまいに何十万倍にもなる。星と星との距離は我々の近辺だと4−5光年ほどもあるのだが、それが1光年ほどになり、0.1光年ほどになりと、もう周りじゅう星だらけになって、青や赤に輝く星達の明るいこと明るいこと。そのあたりの星に安定な惑星が存在しうるのか、いまのところ推測の域を出ないが、仮に惑星があってそこに生物が住んでいるとしたら、彼らの夜空の絢爛さ美しさは、想像を絶するものだろう。

さらに銀河中心に近づいてみよう。そこは大強度のX線の飛び交う死の世界である。そこに一体何があるのか、2009年、ドイツはマックス・プランク研究所の天文学者達が、銀河の中心の真の正体を探り当てた。

赤外線望遠鏡で見ても、暗黒の闇以外、そこには何も見えない。彼らは暗黒の中心の周りを、非常に早い速度で周回する14個の星を見つけて、その軌道を10年にわたり観測し記録した。それらはすべて、一つの点「Sgr A*(射手座エイスター)」、銀河のど真中にある暗黒の中心点の周りを異常な高速で行き交っていた。それは中心点のSgr A*における巨大な質量の存在を示している。計算の結果その質量は太陽の400万倍であった!

超巨大ブラックホール。

銀河の中心には、太陽を二千の二千倍集めて極限まで縮めたような、想像を絶する怪物が鎮座していたのである。通常のブラックホールは、燃え尽きた後の大きな星が重力で自壊してできる星の死骸の一種である。しかし星数百万個分の巨大ブラックホールがどのようにできたのか。それは今のところ、人知を超えたミステリーである。

全ての星々が銀河中心の超重量ブラックホールの周りを回っている。我々の太陽系も2億年かけてそれを回る。あらゆる存在の中心に暗黒が住んでいたのである。

しかもこの暗黒はただの虚無ではない。ブラックホールは「降着円盤」と言われるディスク状の物質の環をまとう。巨大な重力が周りの物質を吸い込む際にできる構造である。円盤内では物質同士が摩擦を起こし接触し衝突する。そこは極高エネルギーの高温世界である。物質はその質量の半分近くまでを失って、それが強烈なX線エネルギーとして放出される。それは巨大な重力エネルギー変換機、宇宙最強のエネルギー創出装置である。これと比べると、質量のほんの1/1000程度をエネルギーに変換するだけの我々の持つ核兵器など児戯に等しい。それは銀河の内外にエネルギーを供給し、そこからいずれ星が生まれ光が生まれるだろう。

宇宙全体には我々の天の川銀河と類似の銀河が無数に存在する。天の川銀河中心の巨大ブラックホールから放射されるエネルギーは、巨大とはいえ、宇宙全体で見ると実は決して大きいほうではない。それより桁違いに巨大なエネルギーを放出している「活動銀河核」をもつ銀河が多数存在する。現在の標準的な理解では、ほとんどの銀河に活動期と休眠期が交互にやってくる。中心のブラックホールの周囲に多くの物質があつまって、それらが吸収されるとき銀河核は活動期に入る。全て飲み込み尽くすと、次にまとまった物質が近づくまで休眠期に入る。

どうやら我々の天の川銀河は、たまたま現在休眠期にあるだけのようだ。次の活動期がいつ始まるのか、我々にはまだ予想することができないという。

いずれ天の川中心が突然輝き出し、とてつもない強度の宇宙線が降り注ぎ、おそらく我々すべてが死に絶えるだろう。それが1億年の後なのか、百年後なのか、または明日なのか、我々自身のまことの宇宙的運命を、我々は知らない。

そんなあやふやな想念にふけっている間に、飯田博士の講義は終わっていた。どこからか来るそよ風に講義室は柑橘の花の香りで満たされていた。土佐の初夏の夕べが暮れてゆく中、質問をする学生たちに取り囲まれて、教室を去っていく博士の姿が遠くに見えた。

再び妄念が湧いてきた。

巨大ブラックホールの起源はなんなのだろう。無数の小さなブラックホールが衝突合体を繰り返してできたものなのか。それとも我々の知らない驚異の超天体の死した後の骸なのか。

あらゆるもの消し去る漆黒の沈黙であると同時に、世を光と力で満たす源泉でもある銀河中心のブラックホール。古代の智者たちは我々に先立ってすでに、世界の中心に座す巨大ブラックホールの存在に気づいていたのではないか。片手で死を、片手で創造を司る造物主シヴァの神、それはいにしえのインドの哲人たちが、宗教的観想の中で予感した巨大ブラックホールの隠喩ではなかったのだろうか。

講義室は真暗になっていた。部屋を出る扉は鍵がかけられ、もう開かなかった。

守衛室に連絡しようと、私は携帯電話を取り出した。それはいうまでもなくバッテリー切れであった。

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