新奇探求型の人間がなぜ世に多いのか

大学での授業中に質問などして教室を眺めていると、「新奇探求性」の多寡でもって、学生をおおよそ二つに分けることができるように思える。教室の半分ほどは、何事にも慎重で今までの経験と慣習を大切にするのに対し、残り半分ほどは、これまでの枠組みを超えた組み合わせや、新しい試みを行う気質が感じられるのである。

普通よく聞かされるのは、最近の若い世代は何事もコンサバで「新奇探求性」が希少資源になりつつある、というものであるが、人間の気質はそう簡単に変わるものとも思えない。むしろ不思議なのは、有史以来、文明が発展し暮らしが安楽になって、特に新しいことを試みずとも満足して生きられるにも関わらず、人間のかなりの割合が「新奇探求型」なのは何故なのか、ということかも知れない。普通に考えると、人類全体の平和と調和のためには、そんな人間はそれこそ1割もいれば十分ではないか。

「新奇探求性 novelty seeking」というのは「クロニンジャーの性格分類学」にも登場する概念で、これは数ある性格分類論の中で唯一、神経生理学的根拠をもつ、科学的な分類とされているようだ。

人間の中の新奇探求性の広がりは、よく考えてみると空恐ろしいほどである。大西洋を越えてアメリカに達したヴィーキング、台湾から広がって絶海の孤島イースターにまで至ったポリネシア人。彼らは一体何に突き動かされて、生きて帰れる見込みの絶望的な低さを知りつつ、カヌーで大洋に漕ぎ出したのだろうか。時計も羅針盤もを持たない彼らにとって、太陽も月も星も助けてくれない東西方向の大航海は、合理的な計算に反する、全く無謀な賭けだった筈なのだから。

しかしそれは、本当に無謀な賭けだったのだろうか。

数理生物学の創世記を彩る英雄W.D.ハミルトンとロバート・メイが、1977年にネイチャーに発表した論文 [これ] には、それに対する意外な答えが書かれている。たとえば海洋民族の大航海のような、部族集団の存亡をかけた居住地拡張への適応こそが、新奇探求性の思いのほかの広がりの原因なのではないか、というのである。

専門家にはよく知られた事実なのかもしれない。しかし筆者はこの話を、講演で高知工科大を訪れた数理生物学の大槻久博士から、昨日初めて伺った。印象が余りにも鮮烈だったのでここに記しておこうと思った。

ハミルトンとメイのモデルは簡単である。居住地可能な島が沢山あって、各々の島は無人島であるか、あるいは一つの部族が住むとする。部族の人口はどれも同じ規定の数と考える。資源が限られていてそれ以上はすめず、また二つ以上の部族が住む事も不可能だとするのである。ある時間が経過して各部族で子供が産まれ、人口が何倍かになったら、そのうちの v  の割合は他所の島へと航海に出て、 1–v の割合は島に残ると考えてみる。明らかに v  は「新奇探求性」を表していて、 v=0 だと超保守的な部族、 v=1 が超冒険型の部族を表している。

航海に成功して他所の島に達する確率を p と書くことにする。島と島は遠く離れていて、カヌーで達するのは困難を極めるので 、p  は1よりもずっと小さい、むしろ 0 に限りなく近い数である。

島に達したのが一つの部族で、そこがまだ無人の島だったなら、幸運な航海者達はそこで生活を始められる。もし先住部族がいたり、ほかの島からの航海者たちと出会ったら戦争である。その島に残れるのは一部族だけだからである。このとき勝敗は、争いの時点の人口に応じてランダムに決まるとする。そして勝った部族が規定人口だけその島で生きるのである。

この設定で人口増殖と移住、戦いを繰り返すとどうなるか、を考えてみる。ある部族は定住型で v=1/10 で子供達は航海にあまり出ない。居残った子供達はお互いに争って規定人口にまで減ることになるが、一方他所から乗り込んできた侵入者があったときは、数の力で島を自分たちのものとして維持できる可能性が高まる。それに対して別な部族は冒険好きで、子供達は v=9/10 の割合が他所の島を目指すので、他所からの侵入に弱いが、一方で大航海で領地が広がる確率が、低いながらも、他よりは多めである、ということになる。

どんな値の新奇探求性 v をもった部族たちが、仕舞いに全体を支配するだろうか。 この過程を分析したハミルトンとメイが得た答えは、最終的に安定な状態になるのは、すべての人口の新奇探求性 v が
v* = 1/(2-p)
の値に達したときである、というものであった。 航海の成功確率 p は、0.001 といった小さな数だと想定しているので、この数 v* は、ほぼ 0.5 になる。つまり最終的には、どの島でも子供達の半数が航海に出るようになっているだろう、というのである。

専門的な用語を用いると、 v = v*=1/2 が「進化的に安定な」新規探求性の値だということになる。この結論を得るために出てくるのは抽象的な数学なので、これは島を移動する人間に限らず、カビの胞子でも椰子でも、生物一般に適用できる筈である。

もちろん今のモデルは単純化が過ぎる。しかしハミルトンとメイは、モデルに確率的なプロセスや有性生殖の影響や、その他の現実的な要素を付け加えた上で、この単純なモデルが問題の本質をおおよそ捉えていることを証明して見せたのである。

おそらく人類を含む多くの生物は、冒険的な気質と保守的な気質の個体が、半々程ずつ混ざっているのがいい按配だと、危険を冒して地理的に拡張する長い長い進化の過程で学んできたのであろう。それは日常の平和な生活にとっては、多すぎる冒険家や情熱家を抱えた、とても負荷の多い、騒々しい生存方式である。

さてこういう話を聞いてから、すこし我々の行く末を考えてみた。筆者には感じられるのだ。人類がこんな人類である以上、技術が熟し次第、あるいは技術が熟す前にでも、火星、タイタン、そしてケンタウルスへと、たとえどれほど望みが僅かでも、きっと宇宙に漕ぎ出すことだろうと。太陽の熱核反応を手にした人類を地球だけに閉じ込めておいたら、血の気が多すぎて自滅しそうだと、我々自身もう70年近く言い続けてるではないか。

そんな大きな物語はそれとして、冒険型定着型が同じくらい混じるというこの話は、自分自身振り返って思い当たることも多い。研究者はきっと新奇な試みを好む冒険的な人が多い、という通念に反して、この世界でも割と慎重型によく出会うものである。筆者自身は冒険型、というかむしろ無謀型のタイプに属すると考えているが、これまでの共著者のほとんどが慎重型であった。実際彼らに助けられたおかげで、酷く道を踏み外したり行方不明になったりもせずに、この歳までなんとか生きてこられたものである。年の瀬などは特に、そんな感慨を催したりするのだ。